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閉幕 愛・地球博が残したもの

調査・研究本部長 宮木宗治

 

 

 

想定外のこと

9月25日の日曜日をもって会期185日間の愛知万博が、無事閉幕した。総入場者数が、2,204万人。目標の1,500万人を、700万人も上回った。そのことを誰が予測できただろうか。最終日にも24万人以上が訪れ、大変な賑わいだった。フィナーレが終わり、ゲートを後にする人々の姿がテレビに映し出さる。皆、満面の笑顔。マイクをさしだされると、「楽しかった」と皆一様に応える。4割から5割が、リピーターだという。中には、百回以上来たという方、185日間の皆勤賞という猛者もいる。全期間、来訪可能な通し券(17,500円)は、前売りで約44万枚売れ、平均10回は足を運んでいるという。某旅行会社が、販売した通し券の途中段階だが、調査したところ平均18回という数字が出ていた、との話も耳にした。とすれば20~30回訪れた人もざらにいるということだ。

 

21世紀最初の万博が、日本においてすさまじい数の人々を引き寄せた。この結果は、やはり特筆すべきことだ。博覧会に精通している人ほど、今回の愛知万博には懐疑的であった。開催の意義自体も問われ続けた。万博という大規模イベントそのものが、日本のような成熟した社会では、既に時代遅れのものと断じ、世の中に受け入れられないだろう、という見方が大勢を占めていた。そのような状況の中で、大赤字を覚悟で、取り組む関係者の姿も多かった。

 

ところが終わってみれば、経済効果は約1兆3,000億円、入場料収入だけでも当初見込みの425億円を約150億円上回る約575億円、万博協会の運営収支は、80億~100億円程度の黒字が見込まれるという。

 

     諸説あるが・・・

なぜこれほどの人・人・人になったのか。その理由を、経済学者やテレビでお馴染みコメンテーター達は分析する。やれ、イベントの持つ期間限定性に求めたり、メディアの影響力に求めたり、人が人を呼ぶ力に求めたり、と諸説紛々である。中には、「失敗することに失敗した博覧会」といった論評もあった。今後も、社会学や心理学、あるいは政治学等々、様々な領域の専門家が、山ほど新説・珍説を展開することになるだろう。また「自然の叡智」というテーマが、時代の歯車と見事に噛み合ったとの自画自賛の説も出るであろう。確かに「自然の叡智」に学ぶ必要のある環境問題が、足元のゴミの分別収集から、地球温暖化への対策に至るまで幅広い領域をカバーするテーマとして時代のニーズにマッチしたことは幸運だった。しかし、当初は「環境」をテーマにするには、いかにも地味。それでは人は呼べない、と言われ続けた。

 

実際、一番人気、二番人気の企業パビリオンは、環境問題を正面から取り上げたものではなかった。むしろ従来どおり、科学技術の最先端をエンターテイメントに仕上げた内容であった。5時間待ち、6時間待ちの企業パビリオンは確かに今回の博覧会の目玉と言われるだけあって楽しい。夢があり、未来への可能性を感じさせるものがあった。しかし、残念ながらそこには「自然の叡智」を感じさせるコンテンツはなかった。

その一方で、ドイツ館等の外国館に「自然の叡智」や「環境問題」を正面から取り組んだものがあり、地味ではあっても、コンセプトへのこだわりに好感がもてた。

 

     国民性の再検証が必要

各パビリオンの個別の評価は機会があればしたいが、筆者が今回の万博で最も興味と関心を惹いたのは、延べ人数とはいえ2204万人もの人が半年間、特定の場所に足を運んだという事実である。この数は、平成13年の東京ディズニーランドと東京ディズニー・シーの合計年間来場者数とほぼ同じである。長い時間をかけて積みあげてきた評判とは異なり、35年ぶりの「博覧会」とはいえ、半年で国民五人に一人が、「愛・地球博に行った」勘定になるほどの、爆発的な集客力を生み出したことに、ある種の驚きを禁じえない。

 

《日本人の好奇心の強さは、捨てたもんじゃない》という思いと、《大衆迎合的な国民感情への不安》がよぎる。一部に、トヨタの存在が最大の成功要因だとの分析がある。中部経済圏、というよりも日本のトップ企業であるトヨタ自動車のお膝元。トヨタが総力を挙げたことで成功に導くことができた、世評、耳にする通称トヨタ博である。確かに、この説を全面否定することはできないが、それだけでは説明がつかない。この説は、あくまで基礎票は確保した、という程度の説得材料にすぎない。

 

むしろ私は、日本人の国民性を再度、問い直したいと思う。先の衆議院選挙で自民党の大量当選と、どこか軌を一にするところがあるのではないか。物見遊山的な「好奇心の強さ」と、ブームに弱い「流されやすさ」に答えを見出したい。難しい仮説を並び立てるよりも、実は、もっと単純なことだったのではないか、と思う。好奇心の矛先は、マスメディアの報道によって先鋭化していったように思う。「どうしてそんなに人が行くのか?」という素朴な疑問、これを自分で確認してみたい、そのような思いが日を追うごとに高まっていき、続々と足を運ぶことになったのではないか。その結果、予想人数をはるかに上回るものになっていった。ある臨界点に達すると、爆発的なブームがおきる。臨界点が、会期半年の、どの時点だったとみるか、今後、詳細な分析が必要と思うが、「乗り遅れまい」という思い、「見逃せば、話についていけなくなる」「とりのこされる」ことへの危惧が、名古屋周辺で突出して起きたことは間違いない。しかし、名古屋や、愛知県、中部東海地方の土地柄に答えを求めるよりも、国民性に私は答えを求めたい。たまたま会場が、中部地方であったことで、その地区のリピーターが多かったにすぎない。一回だけ行ったという人は、全国各地に大勢いる。愛知県人の気質説では、オリンピックの誘致挫折から、万博スタートのゴタゴタも含め、マグマが溜まっていたところに、タイミングよく博覧会が訪れ爆発したという見解やら、通し券を買った以上は「元はとる」という土地柄の強さ説といったものやら、一見もっともらしい説が巷間もてはやされている。

 

愛知万博が始まる頃に、日本イベント産業振興協会では一般的なイベント意識に関する全国調査を行った。サンプル数は、2000人。平成16年の一年間に何らかのイベントに来場した人々への、インターネットによる調査を行った。その結果、「珍しいものを見たり聴いたりするのが好き」という回答が78.5%、「好奇心の強い方だ」66.0%、「人が集まっていると何をしているのかが気になる」64.6%、「お祭り好きの方だ」60.0%と、軒並み60パーセント以上の高い数値を得た。また、イベントに関する興味と関心についての項目では、79%の人が「興味・関心がある」と回答している。特に、女性は、82%と、男性の75.9%を上回る関心の高さであつた。エリア別に全国を8ブロックに分けてみた場合に、東海ブロックに突出した傾向はみられない。むしろ、イベントに関する興味・関心については、低い方である。つまり、「偉大なる地方博」という見方はできても、土地柄をもって今回の「愛・地球博」の大量動員数を説明するには根拠は薄い。

 

     このままでいいのか

結果として、「好奇心の強さ」と「流されやすさ」という国民性の基層が、改めて浮き彫りにされた博覧会として、私は、「愛・地球博」を位置づけた。では、この「万国博覧会」という手法が、国家が伝えたいメッセージをプレゼンテーションする場として最善のものか、というと相当の疑問が残る。21世紀最初の万国博覧会と銘打ったにもかかわらず、手法的にどれだけの進化、あるいは深化したというのだろうか。35年前の大阪万博と変わらぬ、非人間的とも思える炎天下や雨の中の行列。自然の叡智の前に、人間の無能ぶりを示しているようで悲しいものがあった。テロへの未然防止策としてとられた、入場ゲートに辿り着いてからの時間のかかる手荷物検査。入場ゲート前だと、土砂降りの雨でも、傘一本差し出されることの無い無慈悲な世界。ずぶ濡れになって入場し、はじめて買えるキッコロとモリゾーの傘。

終わってみれば、評価軸として、相変わらず「動員数」の多さで「成功」が語られる。動員目標を達成することは、極めて重要なことではあるが、イベントの評価軸は、動員数だけでは片付けられない。関与した人、関与しなかった人、立場によって全く評価が異なるのがイベントのもつ大事なところである。万歳を唱える人もあれば、苦虫を噛み潰している人もいる。

 

イベントの準備期間、開催中、終了後の三時点での喜怒哀楽、膨大な時間と労力、そこに展開された人間ドラマも含めてイベントは、語られていかなくてはならない。2千億円近い巨費を使い、日本という国が、国内及び世界に向けて発信する「環境問題への取り組み」についてのメッセージは、本当に伝わったのか、検証してみる必要がある。参加各国の人々が、会場内で展開された9種類にのぼる「ごみの分別収集」に対して、インタビューをうけると「自国内でもぜひ取り入れたい」等々、絵に描いたような応答をしていたのをテレビで見ると、ちょっと気恥ずかしさを覚える。この気恥ずかしさは、何なんだろう。

今回の博覧会は、多くのボランティアの方々の協力、市民参加無しでは、実現できなかったことは、数多くあり、それもまた社会実験的な性格を内包するイベントの効果・効用として評価の対象となろう。すばらしいコミュニケーションが、そこから始まることも少なくないはずだ。今後、万博の「光と影」が、様々なかたちで取り上げられることになると思うが、基本的には、21世紀最初の万博であるにもかかわらず、20世紀型のイベントの残照として、長く語り続けられることになろう。

 

     インフラ整備型イベントの終焉

 良し悪しは、別として国家的イベントという大儀名分は、様々に公共事業を誘発する。今回の愛・地球博もまた、いつか来た道を辿ることとなった。即ち、「愛・地球博」の開催に照準をあわせ、中部国際空港が2月に開業し、3月には、万博会場への交通手段としてリニアモーターカーが運転を開始、同月東海環状自動車道も 名古屋市と岐阜県関市間の73キロが一気に開通した。このような「イベントとインフラ整備」の蜜月関係は、東京オリンピック以降、40年間にわたって繰り返されてきた。そのたびに経済効果の大きさが喧伝され、建築・土木関係者をはじめとするハコものづくりに関わる企業が活況を呈してきた。しかし、時代は変わった。道路の整備だけではなく、現在では、各地に見事なコンサートホール、コンベンションホール、スタジアム、アリーナ等々の公共施設が整備されてきた。既存の施設で、十分人々が楽しめるだけのものは揃ってきた。後は、中身である。

 

イベントのコンテンツが、真に問われる時代になってきたのである。発展途上国における大規模イベントとは、よって立つステージが変化したことに気づかなければならない。そのような意味では、「愛・地球博」は、どんなに「市民参加型」「ボランティアの大量参加」によって今までとは異なると、声高に叫んでも、大規模プロジェクトの構造としては、20世紀型そのものといわざるを得ない。また企業パビリオン数が、これまでの国際博覧会と比べ少なく企業主導型から脱皮したように見えるが、結果的に日本最強の企業グループであるトヨタグループの強力なリーダシップがあってはじめて成功した、と賛辞とも揶揄ともとれるような「トヨタ博」という言い方が流布した。

 

     「不安に満ちた未来」から「確信に満ちた未来」へ

 昨今の世論調査では、「これから先、世の中が今よりよくなると思うか」を訪ねると、今よりも「悪くなる」という回答が、「よくなる」という回答よりもかなり多い。私は、3年前に2010年に開催が予定されている上海を、訪れた時、中国人の「未来への確信の強さ」を感じるとともに、同時期の愛・地球博を目前に控えた日本人の「未来への不安」とが、あまりに大きなコントラストであったことが強く印象に残っていた。そして今、私は、この小論の最後に聞いてみたい。「愛・地球博」を訪れた子供から大人まで、すべての人に

「あなたは、万博を通じて、未来に対する希望や夢がふくらみましたか」と。

 

以上。